地元新潟の紹介(社報「ゆてき」より)(豪農の館シリーズ)

豪農の館シリーズ:「椿寿荘(旧田巻邸)」

今回は田上町の越後蒲原豪農の館「椿寿荘」(旧田巻邸)を紹介します。

街中を通る国道403号線沿いに、重厚なたたずまいを見せる椿寿荘は、越後の豪農田巻七郎兵衛の離れ屋敷として田巻家七代賢太郎が越中井波の宮大工松井角平を棟梁に招いて、大正3年(1914)から3年半の歳月と7万2千円余りの巨費を投じて、大正7年に完成しました。地主の権力・財力を誇示せんと贅を尽くした屋敷です。

木曽檜を建築主材に用い、吉野杉、会津欅など全国から銘木を集め、釘類は使わず、禅宗様式を取り入れた書院造りです。

椿を長寿の霊木とした中国の故事の神仙思想に習って名づけられたという佇まいは、重厚な趣を呈しています。

また、京都の庭師広瀬万次郎の手になる庭園は、自然の樹想を生かして深山幽谷を表現し四季それぞれに美しさを変える京風の枯山水です。

椿寿荘は戦後の農地改革で一旦国のものになり、旧国鉄の研修施設として使われていましたが、その後、昭和62年に田上町がこの屋敷を購入し、平成21年4月からは指定管理制度により椿寿荘売店組合が管理しています。田上町にお越しの際に訪れてみてはいかがでしょうか。

 

主庭・畳廊下

 

椿寿荘玄関

 

椿寿荘正門

 

衝立 画家「三富与一」作品

 

上段の間の天井

 

床の間・欄間

豪農の館シリーズ:「笹川邸」

今回は新潟市南区、旧味方村の笹川邸を紹介します。

この邸宅の所有者であった笹川家は、安土桃山時代に信濃国水内郡笹川村から、この味方の地に移住し、昭和45年にこの地を離れるまで、14代300年以上に渡って続いた名家です。江戸時代には、味方組8か村(味方、白根、坂井、木場、黒鳥、北場、亀貝、小新。合計約8000石)を束ねる大庄屋を代々務め、年貢の取りまとめを行うとともに、藩から与えられた警察・裁判権を行使していました。その一方で、水害の多かったこの地域での新田開発に貢献してきました。

笹川邸は、中ノ口川と味方江に面し、近郷における用排水と水運の要地に位置しています。

現在の母屋は、文政2年(1819)の火災で全焼した後、文政9年(1826)までに旧村松町の棟梁、小黒杢右衛門によって再建されたものです。

笹川邸は、日本でも有数の規模を持つ、近世後期の大庄屋の住宅です。前庭の眺望、威厳のある表座敷、高い木組み天井の広間、土庇と障子欄間、建ち並ぶ土蔵群は、いずれも雄大さと雪国らしさを兼ね備え、この地域の発展を主導した「豪農」の気概を、今に伝えています。

昭和24年4月に、表座敷・居室部・土蔵・雑倉・文庫・表門・塀が国の重要美術に指定され、昭和29年3月に、重要美術がそのまま重要文化財に指定されました。

また、笹川邸内には、旧味方村名誉村民である「曽我量深」と「平澤興」の功績をたたえるとともに旧味方村を広く紹介するため、平成3年10月に曽我・平澤記念館が併設されました。

新潟市街から車で約30分、重要文化財に指定されている「笹川邸」を訪れてみませんか。

 

表門

 

表屋敷の全景

 

2階座敷

 

囲炉裏の間

 

土蔵群

 

表屋敷の西側にあるひょうたん池

 

表座敷西側の縁側

 

木組み天井

豪農の館シリーズ:「市島邸」

今回は新発田市にある市島邸を紹介します。

市島家は現在の兵庫県の出で、1598年に始祖・冶兵衛が新発田藩主となった溝口侯に随従して新発田に移り住みました。その後、市島家の子孫は売薬業を皮切りに海産物や金物を商いながら、福島潟の干拓を中心とする蒲原平野の開墾等に努め、北陸屈指の豪農となっていきました。最盛期には田畑が千八百町歩ほど有り、3万6千俵の年貢米があったそうです。

現存する建造物は、水原(すいばら)にあった旧邸宅が戊辰戦争で焼失したため、明治5年に現在の地に再建されたもので、敷地約8千坪、邸宅約6百坪に及びます。これは東京ドームのグラウンドの約2倍の大きさに相当します。建物は明治初期の純和風住宅建築として知られ、これらを回遊式の庭園(静月園)が取り囲んでいます。

総欅材の四脚門である表門、玄関は特別な客人のみを通したといわれています。本座敷と母屋を結ぶ150mの渡り廊下からは池の上に造られた茶室(水月庵)や庭園が見通せます。仏間を中心に回廊をめぐらせた南山亭には開祖以来の市島一族の霊が祀られており、その大きさと華やかさには驚きを隠せません。

庭園の奥には水原から移築した茶室(松籟庵)や説教所などがあります。

これらの建造物は、昭和37年に新潟県指定文化財となっています。

市島邸には多くの蔵が有り、古い貴重な品々も非常にきれいな状態で保存されており、施設内だけでなく資料館や蔵にも数多く展示されています。

風格ある邸宅と四季を通じてその表情を変化させる庭園のある市島邸に足を運んでみませんか。

 

板塀

 

表門

 

水月庵

 

松籟庵

 

渡り廊下

 

南山亭

 

仏間

 

説教所

豪農の館シリーズ:「伊藤邸」

日本一の米どころ新潟には、豪農と呼ばれる人々が江戸時代から明治時代にかけて誕生しました。豪農とはこの時代に成長した大地主のことです。戦前、北海道を除く全国で1000町歩(30万坪)以上の耕地を有する地主が11軒ありましたが、そのうちの5軒が新潟県下越地方に集中していたといわれています。戦後の農地改革により多くの地主が財産を散逸させられましたが、住宅や庭園が保存または復元され、一般に公開されているものがあります。

今回、紹介する伊藤家は250年余の歴史を持ち、明治時代はじめから土地を増やして昭和期には県下一の豪農となりました。

現在は八代目となり、「北方文化博物館」として新潟の豪農の歴史や文化を伝えています。ここで言う北方とは東京から見て北の方という意味です。伊藤邸は、8800坪の敷地内に、建坪1200坪で部屋数65の広大な木造純日本風の館で、明治18年から20年にかけて建てられました。屋敷の周りには、柱・建具・畳すべてが三角形または菱形の三楽亭、多数の古美術品が収蔵されている集古館、五つの茶室がある廻遊式庭園などが配置されています。

見学者は、広さ70坪の台所から屋敷内に入ります。往時はここで毎朝一俵の米を炊いたといわれています。台所から二階に行くと考古資料室があり、旧地主時代の文献等を見ることができます。台所の奥は、囲炉裏のある茶の間になっており、南側廊下の上部にはこの屋敷の見どころの一つである長さ30mの杉の「丸桁」があります。

その奥にある大広間は美しい庭園に面しており、100畳敷の大広間と呼ばれています。東側には大玄関があり総欅造りの見事なものです。これらは、伊藤家の特別な催しの時にだけ使用されたそうです。庭園は松の緑に覆われ、春は桜、藤、皐月、秋の紅葉と四季折々に趣きがあります。これからの季節、いろいろな花に囲まれ豪農の気分を味わいに訪れてみませんか。

 

100畳敷の大広間

 

廻遊式庭園

 

30mの杉の「丸桁」

 

古美術品の集古館

 

総欅造りの大玄関

 

三角形または菱形の三楽亭

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